
山と感覚
手の中の小さな森

山岳収集家
鈴木優香
3月の終わりに、高尾山の近くにある景信山(かげのぶやま)に向かった。とある撮影で使う葉っぱを拾うという目的があったので、ひとりでふらりと行くことにした。家から登山口までは電車とバスで2時間。そこから登って下りて3時間。日がだいぶ長くなったので、少し遅めの電車に乗ってものんびりと歩けそう。小さめのバックパックにさくっと荷物を詰めて、家を出た。
ひとりで山に登るときはいつも緊張する。とくに平日は登山者が少なく、誰とも出会わない日もあるからだ。けれど同じバス停で2組が降り、同じ登山口に向かっていることがわかると、とたんに気持ちが解けていった。お母さんと小学生の女の子、そして私と同じくひとりで来ているおじさん。言葉を交わすことはなくても、近くに人の存在があるだけで安心できる。
私は幼いころから怖がりで、怖い話を聞いたが最後、しばらくひとりではトイレに行けなかった。大人になって山に行くようになった今も、それは変わらない。暗い山の中で泊まることも、見通しの悪い森の中を歩くのも、怖いと思うことがある。他にも苦手なものはたくさんある。まず虫が嫌い。それから山小屋の汚いトイレと、カビくさい布団。シミを激増させる紫外線も、浴びずに済むならそうしたい。それでも私は山に登りたい。なぜかというと、山に居るときの自分が好きだから。
景信山に登るのは、この日で3度目。道はよく知っているし、荷物は極力少なくしたので、足取りは軽い。さっさっと、けれど足を置く場所は丁寧に選びながら、どんどん歩く。トレーニングも兼ねて、少し息が上がるくらいのスピードで。針葉樹林帯は葉を付けたままなので鬱蒼として暗く、広葉樹林帯は葉を落としているので見晴らしが良く明るい。これが交互にやってくるこの山は、変化に富んでいておもしろい。とくに、暗いところから明るいところへ出る瞬間が、たまらなく好きだ。なぜかと言われてもよくわからない。光に喜びを感じるのは本能的なものなのだろう。コナラの枝には小さな葉が芽吹き、立ち並ぶ樹々の向こうには満開の桜が見えた。空中に光の粒が浮遊しているようで、きれいだった。風はまだまだ冷たいが、季節は確かに進んでいた。春の山はほんとうに気持ちがいい。
普段、私の頭の中は考えごとで溢れている。過去や未来、世の中や他人についても思考を巡らし、身動きが取れなくなることも多い。けれど、山の中ではそんなことに気を取られている暇はない。目の前で次々と展開する美しい景色や瞬間を、じっと見つめずにはいられない。日々移り変わる草木を愛で、足元に積もった落ち葉の中から拾うべき1枚を吟味し、太陽のありがたさを喜ばずにはいられない。背中に汗が滲む感覚や、足を踏み出すときの筋肉の動き、肺の奥まで深く息を吸えているかということにも、自然と意識が向かう。頭で考える以前の、より瞬発的で直感的な山のひとときは心を解き放ち、そのたびに私を助けてくれる。
山頂には4組ほどの先客が居て、どのグループも見晴らしの良い場所で賑やかにしていた。私はそこから離れて、静かな森の近くの席を選んだ。少し遅れて、同じバスに乗っていた親子もやってきた。

わたしの素
バックパックから、昼食を兼ねたおやつを取り出す。この日はチョコパイと、先日実家に帰ったときに母が持たせてくれた和菓子。木製のカップにスティックの珈琲と砂糖をさらさらと入れて、サーモボトルから熱湯を注ぐ。マドラーの代わりに、珈琲の袋を細く折ったものでぐるぐると混ぜる。波が凪ぐのを待ちながら、両手でカップを包み込んで暖を取る。やがてそこには、ゆらゆらと揺れる樹々の姿が映り込んだ。これは、数多くある山の楽しみのひとつ。珈琲を飲むあいだ、私の手の中には小さな森がある。そう思うと、少し嬉しい。しばらくすると、雪が降り始めた。空はすっかり灰色になっていた。落ち葉の上に雪の粒が落ちる音に耳を傾けてから、荷物をまとめ、颯爽と山を下りた。
連載
山と感覚の扉

山岳収集家
鈴木優香
山は日常にはない美しい瞬間を与えてくれる場所と語る鈴木優香さんと、彼女らしさの素をつくる山登りとともにある食事。