トップページへ
わからないはたのしい

本と生き方

わからないはたのしい

木村綾子

「コトゴトブックス」店主

木村綾子

覚えている限りのいちばん古い記憶ってなに?
先日、ある人からそんな問いを差し出された。「あまり考え込まず、思うままに」と促されて私がはじめたのは、こんな話だった。


私は床に寝かされていて、仰向けの状態でまわりを見回している。窓の外もすこし見えて、庭に咲いていたひまわりに日が照っていた気がするから、たぶん夏で、夜ではなかったと思う。テーブルの脇には歩行器があって、「私もそのうちあれを使うのかなぁ」なんてことをぼんやり考えている。でも、置かれてあるのを見ただけでそれが歩行器だとわかるのはおかしいから、それより前に、兄が使っているのを見たということだろうか。だとすれば、これはいちばん古い記憶ではないことになるし、そもそも兄は私より2歳年上だから、私が生まれた頃にはもう、歩行器を卒業しているはずなのだ。窓の外に見えた花も、なぜそれがひまわりだと知っていたのだろうか。
これはいったい誰の記憶だ? 言葉を重ねるほどに自分から遠ざかっていくような、奇妙な感覚に襲われた。

(たぶんこれは歩き始めた頃の写真。81年9月とあるから、私は1歳2ヶ月。この頃の記憶はないのに、もっと昔の記憶があるというのはやっぱりおかしい)


こんなこともあった。実家に帰省して、何十年ぶりに中学校の卒業アルバムを見返していたときのことだ。寄せ書きの書かれたページも終わって、巻末に向けて白紙のページが続いていたそのなかに、ある男子からのメッセージを見つけた。読んでみると明らかに告白されていて、びっくりした。彼とはクラスでいちばん仲が良く、密かにずっと思いを寄せていた相手でもあった。そんな人から卒業アルバムで告白されて、当時の私が見逃さなかったはずがないのだ。晴れて両思い、なにかしらの発展がそこからあってもいいはずだった。それなのに、私の記憶では、私はその日彼に振られたことになっていた。いったいなにを読み間違えば振られたこととして認識できたのか、さっぱりわけがわからない。彼への恋心はいまでもしっかり記憶しているのに、あろうことか告白入りの卒業アルバムを、実家の誰でも手に取れるような場所に、無防備に放置し続けられた神経もわからない。

〈わからないと言いつつも、わたしたちは何かを選ぶ。どのように語るのか、どのように見るのか、何を聴き取るのかを選んでいる。それは、かぼそく、不安で、心細い自由である。だが、わたしたちにゆるされた、うつくしく確かな自由そのものなのだ。〉

哲学者・永井玲衣さんの本を読むと、「わからない」ことで世界がひらけてくるからおもしろい。言葉と、言葉を無邪気に信じている自分自身を疑うことが楽しくなるし、わからないことをわからないとおもしろがったまま、安易に「わかる」に導こうとしないから安心する。
『さみしくてごめん』にも、「わからない」という感覚にとどまろうとする姿勢がよくみえる。
仕事の打ち合わせ中に突然、年収いくらなんですか、と聞かれる月曜日。ネタ帳をひらいたら「やっぱりハリーポッタリ」という言葉だけが書かれていた水曜日。きれいな花だと近づいたらジョアが差し込まれていた日曜日。すぐお皿を下げようとする店員さんと戦う火曜日。戦争が始まってしまった木曜日。ベランダから自分の部屋をのぞきこんだときに部屋が見せる、他人行儀な空気感。雨に濡れる身体の感覚、思い出せないことが絶えず思い出される街、渋谷。さみしいはつらい? 宇宙はどこ? どうして人は生きている?

「わからない」は不安や怒りやさみしさを生むけれど、同時に世界とつながる出発点でもあるのだろう。人を理解しきれない、世界を掴みきれない、自分の気持ちすら曖昧だ。「わからない」は、けれど存在の否定ではない。「わからない」としてただ「ある」ことを見つけ出し、おもしろがっていたいと思う。

わたしの素

ちなみに、私にとってわからない食べものナンバーワンは、和菓子の「すあま」だ。
なんというかカテゴリーが曖昧で、見た目は団子っぽいけど串には刺さっていない。餅のようでいて、つきたて餅の伸びやコシとはちょっと違う。和菓子ともあろうものが、ほんのりとした甘みだけで見た目もそっけなく、あんこやきな粉のような装飾もないから、なんとなく「これまだ途中じゃない?」と不安になってしまうのだ。
でも、不思議とその未完成感が癖になる。見つけるとつい買ってしまう。「これで正解でいいのね?」と問いを立てたくなってしまう。で、結果よく食べている。わからないと言いながら、案外私はすあまが好きだ。

連載

本と生き方の扉

木村綾子

「コトゴトブックス」店主

木村綾子

世の中の事や人の事を想い、本と人をつないでいく木村綾子さんと、彼女らしさの素をつくる、本から影響を受けた食事。

記事一覧