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幻のソフトクリーム

山と感覚

幻のソフトクリーム

鈴木優香

山岳収集家

鈴木優香

ネパールから帰国して1週間後、写真展の設営と在廊のために大阪へ向かい、一度自宅のある神奈川に戻った数日後には、広島と島根へ。行く先々で「あちこち飛び回って、忙しそうだね」と心配されたが、たくさんの幸せが詰まったネパールの旅が終わり、ぽっかりと穴が開いてしまった心には、人と会って話すことがいちばんの薬になった。


そうこうしているあいだに8月も後半に差しかかり、真夏と呼ばれる季節に終わりが見えてきた。この時期になると、今年の夏はどんなふうに終わるのだろうか、とふと思う。毎日暑い暑いと文句を言いながら過ごしていても、もしも唐突に夏が終わってしまったならば、それはそれで寂しいものである。夕立が降るたびに少しずつ涼しくなって、かと思えば暑さがふたたび戻ってきて、そうやって季節の狭間を行ったり来たりしながら、ゆるやかに秋に向かっていくような、繊細な移り変わりを味わいたい。

今年の夏は、数えるほどしか山に登らなかった。6月の平標山、7月の金勝山、8月の赤岳。忙しかったせいもあるが、やはりネパールの山で満たされてしまったからかもしれない。夏の山の良さは、街よりも涼しいということ。標高が1,000m上がるたびに気温は6℃下がるので、単純に計算すれば、街の気温が35℃だとしたら、標高3,000mの山の上では17℃になる。日も長いので、山と山を繋げて歩く縦走には最適な季節である。足元には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、それを眺める人たちの嬉しそうな顔が見られるのもいい。

そんな夏の山の記憶として必ず蘇るのが、南アルプスの稜線上で、とりとめもないソフトクリームの話をした日のことである。

わたしの素

大阪のアウトドアメーカーに勤めていたころ、金曜日になると大きなバックパックを背負って出社し、退勤後はそのまま夜行バスに乗って甲信越の山へ向かうのが通例になっていた。今でこそ山の登り方はよく心得ているが、山を始めたばかりのころは、自分の実力以上の山行をしてしまったこともある。

ある年の夏、部署をまたいだ6人で、2泊3日の南アルプスの縦走を計画した。1日目は夜叉神峠から鳳凰小屋(約9時間半)、2日目は仙水小屋まで(約10時間)、3日目は甲斐駒ヶ岳を経て北沢峠に下山する(約6時間半)というものだった。しかし、初日の行程を歩ききったところで体力は限界を迎え、膝もがくがく。鳳凰小屋でテントを張ったあと、私ともうひとりはリタイアを申し出た。リーダーはとても残念そうな顔をしていたが、「ルートを変更して、明日下山しよう」と言ってくれた。

翌朝は近くにある高台に登って、皆で朝日が昇るのを見た。それからゆっくりと朝食を取り、テントをたたんで出発。オベリスクと呼ばれる特徴的な岩塔が聳える地蔵岳を経て、白鳳峠から広河原山荘へと下るルートを取った。初日の疲れは回復していなかったが、一度登ってしまったら、自分の足で下るほかない。辺りの山々は霧で覆われていて、いったいどこまで歩けばいいのかもわからない。滴る汗を拭いながら、重い身体をなんとか前へ前へと運んだ。そうして歩いていると、ふと頭の中に、つややかなソフトクリームの画が浮かんできた。私は思わず、「ああ、ソフトクリーム食べたい」と呟いた。すると、近くに居た仲間から「いいね、食べたい」という言葉が返ってきた。

「下山したら、絶対食べよう」
「うん、絶対食べよう」
「道の駅か、サービスエリアで」
「うん」
「山梨だったら、巨峰とか桃の味もあるかな」
「あると思う」
「でも、結局バニラを選んじゃうかも」
「たしかに」
「バニラと桃のミックスもいいな」
「迷ったらそれだね」
「あと、ソフトクリームにはちょっとこだわりがあって。アイスの詰まったカップをマシンにセットして押し出すタイプは、あんまり好きじゃないんだよね」
「ああ、わかる。表面がちょっとひび割れるタイプでしょ」
「そうそう」
「安いし色んな味があるけどね。できたての感じがないよね。きれいに絞り出せないから見た目も良くないし」
「やっぱり牧場で食べるような、つやつやのが美味しいよね」
「うんうん。バニラというよりも牛乳の味のやつ。さっぱりだけど濃厚みたいな」
「そうだね」
「カップ派?コーン派?」
「私は、カップ。最後はソフトクリームの味で終わりたい」
「まあ、わからなくもない。コーンだと香ばしさが後味になるしね」
「コーヒーフロートもいいよね」
「それがあったら最高だね」

…それから5時間歩き続け、やっとの思いで下山したが、結局、道の駅でもサービスエリアでも、ソフトクリームを食べることなく帰路に就いた。山の中で足を止めない唯一の方法。それは、下山後に待っている希望を思い浮かべ続けること。その役目を終えたとき、頭の中のソフトクリームは、ふっと溶けて消えていったのだった。

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山と感覚の扉

鈴木優香

山岳収集家

鈴木優香

山は日常にはない美しい瞬間を与えてくれる場所と語る鈴木優香さんと、彼女らしさの素をつくる山登りとともにある食事。

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