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BÖRJAN/始まり

食事を空想するプロジェクト

BÖRJAN/始まり

山野アンダーソン陽子

ガラス作家

山野アンダーソン陽子

「おいしさ」について質問された時、その答え頭の中で整理しながら、普段から「おいしさ」にまつわる人との相違にとても興味を持っているのだと気がついた。そして、自分がガラス食器を制作したり、陶磁器の食器のデザインをしたりしていることもあり、人によって捉え方が違う「おいしさ」をより楽しく探究 してみたくなった。

たとえば、誰かに「今まで食べたおいしかったご飯は何か」と質問された時、私たちは写真などのイメージに頼らずはっきりとその味を思い出して言葉にすることができるのだろうか?  そもそも私たちが「おいしさ」を思う時、いったい何を思い出すのだろう?

レストランで、メニューを頼む時(特に海外で言葉が分からない時など)写真があると視覚的情報と自分の経験値から、ある程度の「おいしさ」の想定ができる。けれど、食べてみたら違った…んてこともあったり、その反対に見た目よりも遥かに美味しい !なんてこともあって、それが「おいしさ」のエピソードにもなったりもする。

昨日もロンドンのとあるレストランで食事をした際、大きな黒板に手書きの筆記体で書かれた白いチョークの英語のメニューに苦戦した。「Grey mullet」がどんな魚なのか、ググってみると、誇らしそうに大きなGrey mulletを抱えた秋のロンドンの雰囲気とは違う、夏の雰囲気満載のキラキラのサングラスをした釣り人たちの写真が続々と出てきた。ああ〜、ボラか… と少しがっかりして、ラム肉のメインを頼んだ。けれど、今になって考えたみたら視覚から入った情報に頼りすぎた判断をしたことに少し損をした気分になった。

自分の中や周りで溢れた視覚的情報を勝手に解釈したり、「これが正しい情報」と勘違いしたりして、きちんと整理できていないことが多くある。


「おいしさ」を考えた時、味や見た目を重要視していると思っていたけれど、特に遠い記憶になればなるほど、私はそれよりその「おいしさ」にまつわる情景を思い出していることが多い気がする。けれども頭の中の情景は時と共に移り変わりやすい。それと同時に移り変わりやすい「おいしさ」の情景を恐れず、移り変わりを 楽しめることが「おいしさ」の醍醐味でもある気もしている。

私の母は、私の父が亡くなってから5〜6年、父の節目ごと に「あの人と最後に一緒に食べたご飯が思い出せないのだけど、なんだったかしら」と言っていた。父が倒れた晩、仕事で帰りが遅くなるのでカレーやサラダ、スープを作り置いていったのを覚えているらしいのだが、その前の晩に一緒に食べた食事がなんだったのか、どうしても思い出せないらしい。そうやってしばらくの間は誰も知らない答えを探していたけど、十三回忌が過ぎた頃から「何かおいしい 食事を食べたに違いない」 と変換するようになって、思い出せない思い出ごと、受け止めるようになっていった。空想の中で存在するおいしい情景を思い描いている かのようだった。

そんなことから、もしかしたら「おいしさ」は、空想 に存在しているのかもしれないとさえ思えてきて、味やビジュアルにこだわりすぎない空想上 での食事会を作り上げるプロジェクトを思いついた。あくまで空想なので自分たちの分野での現実的な問題を吹っ飛ばして、それでもちゃんと専門的に、こういうのがあったらいいな、という希望も含めた食事会を空想する。そして、ちょっとゲーム感覚にロールプレイングプロジェクトにして、食器から派生して、食事、飲みもの、カトラリー、テーブルクロス、インテリア、建築…… など、それぞれの専門分野の方を2〜3回に1度ゲストにお呼びして、対談をし、連想し、いつかの食事会を一緒に作り上げることにした。

ウェブ上でフロントページにビジュアルが必要ということで、食事そのモノの味やビジュアルにこだわりすぎない「おいしさ」を山下ともこさんのグラフィックと共にテーマごとに文章のみで表現する試みにした。

読者にもそれぞれのおいしさがあるように 、自由に空想して、自身 のことのように想像を膨らませてもらいたい。

連載

食事を空想するプロジェクトの扉

山野アンダーソン陽子

ガラス作家

山野アンダーソン陽子

「空想のレストラン計画」を通して、おいしさの可能性をたのしく妄想していきます。

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